子供の時に周りにあったのは、暗い裸電球がぶら下がった店先と、アズキ色の古ぼけた省線電車と、短調の物悲しい唱歌の数々と、貧しさだった。
しかし、巨大な災禍の日々が終った安堵があった。明るい歌も広がっていった。「リンゴの歌」と「鐘の鳴る丘」と「朝はどこから」。それにキンダーブックと小川未明童話集と。
1953年には吉田茂首相がサンフランシスコで講和条約に署名して国際社会に復帰し、56年には国連加盟が実現した。日本は、戦後わずか10年あまりで胸を張って、そのまま国際社会の一員となったのである。
その後も、日本は戦争に至った過程を自らの手で断罪することはなかった。310万人の日本人の命を奪った戦争の責任問題は、極東裁判という形で外国の手に委ねられた。アジアが受けた被害規模を調査することもなく、「日本は平和国家になりました」とだけ唱えてきた。
多くの日本人は、戦争と言えば太平洋戦争を想起する。そしてこう考える。「太平洋戦争はアメリカに正面からぶつかった堂々たる戦争だったが、彼我の差いかんともしがたく敗北し、最後には原爆まで落とされ、一億国民が総懺悔をし、戦争の総括は終わった」。
ここに、今日の中国、韓国を始めとするアジア諸国とのズレがある。重要なのは、戦争は1941年の真珠湾攻撃ではなく、1931年の日華事変から始まっていることである。板垣征四郎大佐(極東裁判A級戦犯)たちが柳条湖で勃発させたのは、満州だけでは足りず華北まで手に入れるための関東軍の戦争だった。太平洋戦争が仮に日本の「自衛戦争」であったとしても、日華事変は侵略戦争以外の何ものでもない。
完膚なきまで日本を打ち負かしたアメリカには、日本に対する復讐心は残らなかった。それどころか、彼らは寛大な勝利者として日本の民主化と復興を支援した。このアメリカとの確固たる、そして居心地のいい同盟関係によって、いっそう、戦争は日本で「過去の不幸なエピソード」となっていった。
しかし中国・韓国との関係ではそうはいかない。彼らの中にあるのは、屈辱感と、いつかは日本を見返そうという意味での復讐心である。日本は「戦争第二部」であった太平洋戦争があまりにも鮮明な記憶となったために、「戦争第一部」であった日華事変については明確な加害者意識も持たず、中国・韓国人との懸隔を広げてきた。アジアの心の深層とは向き合わず、相手が喜ぶ経済協力や親善訪問といったラクで綺麗な外交だけを重ねてきた。中国人と「カンペイ」と杯をあげ、「我々はラオポンユウ(親しい友人)」と肩を抱き合った。しかし、表面的に関係を称賛しあっても、日中間の深い黒い溝は埋まらない。そのまま、60年が過ぎた。
今、両国の間に存在するのは、かたや戦犯の概念も否定する日本の一部の論調であり、こなた全アフリカ諸国に特使を派遣して日本の安保理入り阻止に全力をあげる中国の姿である。
これまで日本外交はアメリカだけを選択していればよかった。しかし舞台は回り、時代は中国・インドなどの大興隆期に入っている。日中関係は、過去の問題に加え、協力か競争かの複雑な地点に立ち至った。ラオポンユウとの呼び合いだけでは対応できない。
講和条約以降、日本外交には柱が二本しか建たなかった。アメリカとの同盟関係、そして多角的な国際協調。三本目のアジア外交という柱は、地盤の強化工事が行われなかったため、未だに建っていない。
戦後60年。アジアは岐路にある。日本・中国・インドが鼎立しつつ緩やかに連携する多角的アジアになるか、「大陸アジア対日本」の対決的構造になるか。方向は、日本自身の選択によっても決まってくる。日本が先ず総括すべきは、1931年から四半世紀の日本の生き様である。同時に軍国主義とは別個に存在し続けた日本人の感性まで否定されてはならない。
しきりに思い浮かぶのは、戦死していった無数の将兵が家族を思いやった心である。「鳴る鳴る鐘は父母の 元気でいろよという声よ 口笛吹いておいらは元気」。その戦災孤児たちも還暦を超えた。 |